小さな世界 第1話


梅雨に入り、連日の大雨にうんざりしながら、僕は土手を走っていた。
しとしとと降るなら可愛げもあるが、残念なことに、ざあざあと大きな音を立てて空から雨が降り注いでいた。
まるでバケツをひっくり返したような、と言う表現が当てはまるほどの雨量だ。
今日は土曜日。久々に何も予定の無い休日だった。
こんな日は日課のトレーニングとはいえ、外に出るのは憂鬱だったが、体を動かさなければその日一日どこか調子が悪いので、僕は渋々雨具を着込み、外に出たのだ。
雨のせいで視界も悪く、その上湿度も高いこの時期に、ランニングウエアの上に雨具を着て走る。当然の結果ではあるが、蒸し暑い上に蒸れて仕方がない。さっさと終わらせようと、いつもより早いペースで走っていた時、ふと何かが気になり、僕は川原へ視線を向けた。
連日の雨で増水した川は氾濫する一歩手前で、泥で濁った水が勢いよく流れていた。ただそれだけの風景。
それなのに僕は妙な胸騒ぎを覚え、立ち止まった。
とはいえ、土手の上から川を眺めても何も無い。
なんだろう。
訳も無くざわつく感情に、僕は眉を寄せた。
僕は昔から勘が鋭かった。
特に身の危険を感じた時や、何かを探しをする時には驚くほど勘が冴えた。
野生の勘と言っていいほどのこの勘を僕は自分の思考以上に信頼している。
その僕が何かを気にして立ち止まったのだ。
何かは解らない。
でも、気になる。
ならば何かあるはずだ。
ここから見ていても意味は無いと、僕は土手を駆け下りた。
雨で濡れた草むらは滑りやすく、何度かバランスを崩しそうになったが、それでも問題無く川原へ降りる事が出来た。
間近で見ればますます水流が激しい事が解る。
急がないと”危ない”な。
その自分の判断に眉を寄せた。
何が”危ない”のだろう。
僕か?それとも別の何か?
何となく気になる方へ足を向けると、川原に何かが落ちていた。
半分水たまりにつかる形で落ちていたのは華美な装飾がされた箱だった。
女の子が好きそうな、オリエンタル風の装飾がされた宝箱。
雨に濡れ、泥で汚れたその箱は、最近ここに捨てられたか流れてきたのだろうか。
まだ真新しい物だった。
それを手に取ると、先ほどまでの焦りが消えた。
それで確信する。
この箱か。
なんでこの箱が気になったのだろう?
僕は一先ずここは危ないと、足早に土手を駆けのぼった。
土手に登って5分も経たずに、川の水は氾濫し、先ほどの河原は水の底に沈んで行った。良かった、間に合った。

「それにしても、何でこんな箱が気になったんだろう?」

高価な品でも入っているのだろうか。
掌には余るが、さほど大きなものではない。
箱の横につまみがあったので、オルゴール付きの宝石入れだと解った。
鍵穴はあるが、かぎは掛かっていないようで、僕はその箱のふたを開けてみた。
高級品が入っていたら困るので、雨にぬれないよう、慎重に半分ほど開く。
そこには予想していなかったものが収められていた。

「・・・人形?」

箱の中は、柔らかなクッションのような素材が敷かれており、そのクッションに埋もれ、横になっている人形が一体入っていた。
黒い髪に白磁の肌、黒いスーツを着た男の人形で、まるで生きているかのように精巧にできていた。
知識の無い僕でさえ一目見て普通の人形では無い事が解るのだから、高価なものに違いない。
さてどうしよう。交番に届けるべきだろうか。
そう思い蓋を閉めようとした時、蓋についていた小さな水滴が一粒箱の中へぽたりと落ちた。
それは人形の顔にあたり、あ、しまった濡らしてしまった。と眉を眇めた時、その人形がピクリと動いた。
そう、動いたのだ。
目の錯覚か?思わずじっと見つめていると、その小さな顔にあった二つの瞼がゆっくりと開かれた。

「・・・え?」

瞼の下からは宝石のような紫の瞳が現れ、こちらに視線を向けた。
だが、何度かぱちぱちと瞬きした後、再び瞼を下ろした。
そしてまた動かなくなった。
人形なんだよね?こんなに小さいんだから人形のはずだ。最近の人形は凄いんだな。
その思いに、違うと勘が告げた。
人形の、作り物の動きにしてはおかしい。
作りものにしては、繊細すぎる。
よく見ると、その小さな胸が呼吸のために上下していた。

「まさか、生きてるの?」

生きている。
僕の勘はそう回答を出した。
生きている?こんな小さいのに?
あり得ないと思いながらも、僕は慌てて蓋をすると辺りを見回した。
この大雨の中、しかも早朝にこの土手を歩く酔狂な人間など自分ぐらいだ。
だから周りには人っ子ひとりいなかった。
車道からも離れていっる為車も通っていない。
僕は自分の勘に従い、その箱を衣服の下に隠すと、出来るだけ振動を与えないよう注意して走り、その場を後にした。

2話